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何かでみたのですが、
徳川体制終焉の頃に
新政府側だったかに
豊臣側の家臣の血筋がいて
復讐になった例ってありますよね?

A 回答 (3件)

関ケ原の西軍東軍の話で良いですよね?


(家臣だったと言ってしまうと、徳川だって家臣でしたから)

石田三成を中心とした西軍はあえなく敗れたわけですが、
西軍に参加した大名の多くは徳川に下って外様大名として存続しています。
つまり家臣の血族が、、、というほどレアな存在ではない。
なにせ明治政府の中心となった薩長土肥がそうだから。
薩摩、長州は言うまでもないでしょう。
土佐も西軍に与しましたが改易(取り潰し)されて領主をすげ替えられた過去があります。
肥前(佐賀)も西軍で後に寝返った藩です。

要するに明治維新の流れそのものが、関ヶ原で西軍側についた大名やその家臣の子孫によって起こされた、ということです。
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豊臣側の家臣の血筋がどこからか…というのがまた難しいですが、倒幕側の土佐藩が藩主は豊臣家の家臣でしたが関が原では東軍になってますし、戦国時代の土佐の長曾我部家は西軍でしたが敗戦で改易となり、長曾我部家臣が土佐郷士(武市半平太、坂本龍馬等)で倒幕に寄与したというのはありますね。

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関ヶ原の戦いで西軍だった、薩摩、長州に土佐の郷士たちが討幕側というだけで充分では。


長州の毛利家は、正月に重臣と藩主2人っきりになって「徳川討伐の準備は整いました」のやり取りがあったという伝説が残ってます。
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