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明智光秀の前半生は謎だと言われます。土岐明智氏の庶流だという意見もあれば、そうではないという意見もあります。高い格式なら足軽衆(俗にいう足軽ではないことは承知)なぞ、しないとか、それは姓しか書いてないから、光秀とは言えない、などいろいろ意見はあります。

私個人的には、やはりある程度の出自、全くの素浪人ではなかったと思うのですが、皆さんはどう思われます?
室町時代末であっても、全くの素浪人が細川幽斎と繋がりを持ち幕臣になれるとは思えません。それなりの出自であったと思えるのですが、どう思われますか?

A 回答 (7件)

天正7年1月に書かれた「遊行三十一祖京畿御修行記」に「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが」とあり、「立入左京亮入道隆佐記」にも記述があることから、同時代の複数の史料を根拠として、明智光秀が美濃守護土岐氏に連なる家柄であったと考えるのが妥当でしょう。



勝手に土岐の明智を名乗ったという考え方もあるようですが、当時、まだ明智家と関わりのある人たちが多く存命していたはずで、まったくの嘘の素性ではバレる危険は高かったからです。その場合、信長の気性ですから殺される危険もあったわけで、さすがに、こういうことで嘘はついていないと思います。

足利将軍家の「足軽衆」に関しては、下記リンク先の記述(私見)が当たっていると思われます。だからこそ細川藤孝は明智光秀を介して信長に接触してきたのでしょう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58277(途中から会員限定記事)
朝廷との外交に関わる儀式作法を知っていたことからしても、明智家の一員であったのは間違いないでしょう。史料は殆どないものの、明智光綱が存在していたとすれば、その子と考えるのが妥当ではないでしょうか。

尚、越前から美濃へと移ってきた山岸家の山岸信周が光秀の父親という説もあります。山岸家は明智家と婚姻や養子縁組で深く繋がっていました。仮に山岸家の一員だとしても明智家とは姻戚関係にあるわけで、養子縁組などで明智姓となっていても不思議ではありません。光秀が最初、越前の朝倉に仕えたことも説明がつきます。
いずれにせよ、明智の一族・縁戚であったことだけは間違いないはずです
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土岐源治を称していますね。


そして小栗須で死なず、天海僧正になったという伝説がありますね。
足利将軍を追放した信長を討ち、室町幕府を再興せんとしたが、
はからずも徳川幕府に仕えることになったという説は面白いですね。
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私もそこそこの家の出だと思います。

朝廷の対応をした(これは信長に仕える前からのはず)というのも、貴族の習慣などに通じていないと上手くいかないものですし、他にも書など(何の書なのか忘れましたが)も形式として一通りそろってないとならないところを、ちゃんと押さえて書かれていたりしたようで、おそらく幼少のころからそれなりの教養を得ることができたからだろうなどという話を聞いたことがあります。

秀吉を除いて、基本的には殿さまの子供が天下取りの争いをしていたので、そうそう低い身分のものが出てくるということは実はなかったりしますねw
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信長の上洛後は、朝廷との対応、ほぼ一手に引き受けてることから、かなりの教養があった。

イコールある程度裕福な武家の出身かと。美濃の重役クラスの家の出が一番正解に近いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

光秀の前半生の記録はありませんが、全くの素浪人から成り上がったと考えるには、不自然、やはりそれなりの家柄、立場であったのような気がします。

ご指摘の通り、それなりの家系であったと考える方が自然だと感じます。

お礼日時:2025/04/30 17:49

細川幽斎自身も出自があやふやですからね。

幽斎は家格ロンダリングしたけど、そういうのに無関心だった忠興が江戸時代になってから不確かな記憶と思い込みで作ったのが現在伝わる細川家の家系図。
意外と自分の家系に無関心な武士は多い。特に養子。江戸時代でも、何人も養子が入ると伝来の文書の散逸が酷くなる傾向がある。

明智光秀も本当に明智氏の出身なのかも怪しい。幽斎が家格ロンダリングしたように、足利義昭に仕えることで奉公衆明智氏の名跡を継いだだけなのかもしれない。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。細川幽斎の場合、出自が曖昧なのは父親の三淵晴員の方だと思うのですが、少なくともそれなりの家系で、全く素浪人という訳ではなかったと思います。
室町後期に全くの素浪人が、それなりの立場になって頭角を表すのはとても無理、やっぱり光秀も何かしらの立場、由緒があったのではないかと感じた次第です。

お礼日時:2025/04/30 17:45

当時の名のある武士はすべて平氏源氏に繋がる。

ということは家系は作り物ということですね。織田信長は平氏、徳川家康は源氏、家系を作る職業がありました。
記録の無いものはどうしようもないですね。
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昔は戸籍がないので言ったもの勝ちです

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